匠弘堂・代表取締役社長の横川 総一郎が、社寺建築の仕事やその魅力について思いの丈を語るコラム連載。第1回は、匠弘堂という会社が誕生するまでのストーリーを綴ります。
プロフィール
横川 総一郎
匠弘堂代表取締役社長、設計、営業、経理担当。昭和39年京都生まれ。大学では機械工学を専攻、家電メーカーを経て建築設計の業界へ飛び込む。現場にて岡本棟梁らと出会い、感銘を受け、岡本棟梁に入門。 のちに3名で「匠弘堂」起業。松下幸之助氏の「志あればかならず開ける」が信条。 趣味は楽器演奏、ドライブ。辰年、O型。
大企業のキャリアを捨て、建築の道へ
大学では機械工学を専攻。大学時代はバンド活動に打ち込んだりしていましたが、その当時から、研究者としての道ではなく「ものづくり」の世界に興味があるような若者でした。
一度は大学院に進学したのですが、その思いは変わらなくて。結局中退したんですね。
その後は松下冷機(現・パナソニック株式会社)に就職。がむしゃらに仕事に打ち込んできましたが、「これが本当に自分のやりたいことなのか」という疑問が拭い去れず、建築の道へ進むことを決めて。地元の京都に古くからある建築設計事務所に転職しました。
社寺建築ではなく一般建築の事務所だったのですが、転職して2年目のときに偶然、お寺の仕事が舞い込んできたんです。
珍しい案件なのでみんなが「さっぱりわからない」と嫌がる中、日の浅い自分にその仕事が押し付けられてしまいました。
ただ、今振り返ると、これが人生の転機になったんですよね。
最高に楽しい、社寺建築の仕事との出会い
当時いたのは一般建築の設計事務所ですから、社員にも当然、社寺の設計ノウハウはありません。そこで、社長の知り合いの某有名工務店さんが自分の指導をしにきてくれたんです。それがものすごく面白くて。毎日日付が変わるまで机にかじりついて、ひたすら図面を描き続けました。
それまでは、仕事をしていても「早く帰りたい」という気持ちが強かったのですが、社寺の図面を描くときは「もっとやりたい!もっとうまくなりたい!」という、味わったことのない気持ちが芽生えてきて。私は、気づけば社寺建築の魅力に取り憑かれていました。
周りの先輩たちからは「お前、よくそんな面倒なことやるな」と言われたことを覚えています。周囲の社員は、自分の仕事に関心を示してくれなかった。でも、逆にそこにこそビジネスのチャンスがあると感じたんです。人がわからないこと、嫌がること、めんどくさがることだからこそ、それを自分が理解し、極め、実行できるようになることに意味があると思います。
そしてこの頃から、伝統建築の専門家として、自分で伝統建築の設計事務所をやりたいという想いを抱くようになりました。
宮大工の「神々しさ」──初代棟梁・岡本弘との出会い
その後、私は社寺建築のノウハウを持つ設計事務所に転職しました。
今でも覚えているのが、京都市東山区にある要法寺の新築工事の案件。転職して一番最初に担当したこの現場で、私は岡本棟梁と、当時入社したての有馬くん(現・匠弘堂2代目棟梁)と出会いました。
当時は彼らと私は別の会社だったので、月に1度の定例打ち合わせくらいでしか顔を合わせなかったんです。けれど、初めて出会った宮大工に、なんとも言えない神々しさというか、恐れ多さみたいなものを感じました。自分からはあまり話しかけられなかったことを覚えています。
なんとなく、「将来こういう人のもとで修行をするときがくるかもな」という予感だけは感じていました。
ふたりの仲間との運命的な再会
あるとき、事務所の上司が転職することになりました。
聞いたところ別の建築会社で、設計部を新規に立ち上げるのだと。
「横川、一緒に来ないか」と誘われて、まぁ引き抜きみたいなものです。前の事務所に恩を感じていたので悩みましたが、「設計専門の事務所じゃなく、現場の宮大工さんと近い環境で仕事ができる」ということに大きなチャンスを感じて、転職を決めました。
そこで、本当に偶然なんですが、岡本棟梁と有馬くんに再会したんですよね。当時の彼らも雇われ棟梁・大工としてその建築会社にいて。運命的なものを感じました。
その頃から、岡本棟梁をはじめとする宮大工さんたちの下で原寸図や施工図面を描いたり、彫刻の下絵を描いたりということを本格的に学び始めました。
岡本棟梁は、当時からとにかく丁寧に教えてくれる人でした。
社寺建築、とりわけ「屋根」の設計においては、設計士と宮大工が密に連携しないといけない。設計士は現場で起こるトラブルを可能な限り想定し、宮大工は設計の意図を汲みとって50年後を見越して施工する。そのためには年齢や経験にかかわらず、仲間と信頼関係で結ばれていることが重要なんです。
岡本棟梁は、出会った当時からこのことを大切にしていました。それは周りの宮大工からするとちょっと変わったことだったかもしれないですが、私が匠弘堂を経営する上で、今もなにより大切にしていることなんです。
有馬棟梁との初めての共同作業
一方、有馬くんは、岡本棟梁には聞けないようなことを気軽に相談できる相手でした。彼は私より9歳も年下ですが、仕事がものすごくデキることは、横で見ていてすぐにわかりました。
そんな彼と初めて一緒に仕事をしたのは、妙福寺の庫裡を新築したときのこと。鉄骨の玄関に木造の唐破風を貼り付けるという、ちょっと難しい作業でした。
岡本棟梁から「有馬とふたりでやってみろ」と指示されて。自分にとっても有馬くんにとっても、初めての難しい仕事でした。お互いにそれまで培ってきた経験を生かして、試行錯誤して。今思えばまだまだ未熟なふたりでしたが、それでも彼と一緒に仕事をやりとげたときの興奮や達成感は、忘れられません。
社寺建築に人生をかける決心をしたときのこと
匠弘堂を立ち上げる直接のキッカケになったのは、私たち3人が当時勤めていた建築会社が倒産してしまったことでした。当時の私は設計士をやる傍ら事務を担当していたので、倒産前後の処理に忙殺されていました。ちょうど二人の子どもも小さかったので、将来への不安を強く持っていたことを覚えています。
ただ、そのときに岡本棟梁が言ったんです。
「大工として、職人としては、作りかけのものをほったらかしにはできない。解散するなら、最後までやってから解散だ」と。
正直、「この人こんなときにすごいこと言ってる…」と思ったんですが(笑)、実際にやりかけの現場がいくつかあって。施主様の顔を思い浮かべると、中途半端に投げ出せないのは事実でした。
そこで岡本棟梁、有馬くん、私の3人を中心に、残ったメンバーで最後の仕事をやりきったんです。その仕事を通じて、仲間との信頼が確固たるものになりました。
有馬くんと相談して、新しい会社を作ろう、と決めました。社寺建築に人生をかけるなら、自分たちの手で会社を興したい、と。岡本棟梁も、最初は「ダメだ、まだ早い」と言っていましたが、最後は私たちの熱意に押されたのか、匠弘堂の立ち上げに賛同してくれて。
会社の名前は、岡本棟梁の下の名前である「弘」から1字を取り「匠弘堂」とすることに。
こうして2001年2月21日、匠弘堂は誕生しました。