匠弘堂の2代目棟梁、有馬 茂によるコラム連載。第1回は、匠弘堂の初代棟梁であり、有馬自身の宮大工としての師でもある岡本 弘について、その出会いから忘れられない“ある言葉”までを振り返りつつ綴ります。
(初代棟梁・岡本弘の意志や仕事への想いは、コチラのページでも紹介しております。是非ご覧ください。)
プロフィール
有馬 茂
匠弘堂専務取締役、宮大工2代目棟梁。昭和48年福岡生まれ。 21歳のとき、サラリーマンから転身し宮大工を志す。以後、岡本棟梁の下で修業し、「五重塔のように逆らうことなく自然体で基本に全力全身、社寺建築のために尽くしたい」という信条で歩み続ける。 趣味は津軽三味線。丑年、B型。
21歳で、物流会社の社員から「宮大工」へ転身
私が「大工」という仕事を最初に意識したのは、まだ子供の頃だったと思います。父親の趣味が日曜大工だったのと、叔父が大工をしていたということもあって、自然とノコギリやカンナに囲まれて育ちました。
高専では化学を専攻していましたが、しだいに「向いてないな」と思うようになり、他の道を意識するようになりました。ただ、企業に勤めて親を安心させたいという気持ちが強かったので、卒業後は物流会社に就職しました。
現場主義の社風、という言葉に惹かれて選んだ会社だったのですが、私が配属されたのは管理の仕事。30年、40年と同じ会社で経験を積んでいく自分の姿がどうしてもイメージできず、結局1年もせずに会社を辞めてしまいました。
そこで改めて頭に浮かんだのが、幼い頃から身近だった「大工」の仕事です。何の気なしに京都のタウンページを見ていたら、「社寺専門の大工」という文字が目に留まって。宮大工という仕事と出会ったのは、そのときでした。
私も21歳と若かったので、「一か八か受けてみて、雇ってもらえるならやってみよう。もし向いていなかったら辞めればいい」ぐらいの気持ちで、10社に手紙を出しました。……そして最初に手紙をくれたのが、岡本棟梁が当時働いていた社寺建築の会社だったんです。迷わず、そのまま入社しました。
「答えは必ずある」ことを身をもって教えてくれた、岡本棟梁の仕事
入ってみたら、その会社は平均年齢が60歳超のベテランばかりで。当然、私が最年少だったので、とにかく下働きを頑張りました。
入社して3ヶ月くらいの間はいろいろな現場を回らせてもらって、そのあとに岡本棟梁の下につくことが決まりました。最初は、棟梁の現場に資材を運び、空いた時間で棟梁の手伝いをさせてもらうといったことが自分の仕事の中心でした。
岡本棟梁の仕事をすぐ近くで見る日々は、とにかく驚きの連続でした。
たとえば、阪神大震災の直後、兵庫県西宮市の門戸厄神東光寺の修復作業に当たらせていただいたことがあります。震災で柱石からずれてしまった柱を元の位置に修復するという仕事だったのですが、これがどう考えても難しい。けれど岡本棟梁は、「こんなやり方があったのか!」と度肝を抜くような手法でその修復を進めたんです。
はじめに書いたとおり、私はもともと化学を専攻していたので、化学や物理学といった知識は持っているつもりでした。その現場を最初に見たとき、正直に言って「手の打ちようがないな」と諦めていたんです。
しかし岡本棟梁の仕事ぶりを見ていて、それは間違いだったと気づきました。
仕事でなにか壁にぶち当たると、自分の知識や経験が邪魔して「八方塞がりだ」と思ってしまうことはよくあると思いますが、本当はそんなことはない。きちんと考えれば、答えは必ずあるんです。もしその壁を乗り越えられないと感じたなら、それは単に自分の能力がまだ足りていないだけだということを、私は棟梁から身をもって学びました。
岡本棟梁は決して口やかましい人ではなかったのですが、若手のことは気にかけて育てようとしてくれる人だったので、成長の機会はたくさんもらったと思っています。あまりストレートに私を褒めたりすることは多くなかったのですが、昔、棟梁の奥様から「家ではいつも有馬さんの話をしてるんですよ」と教えていただいたことがあって、それは嬉しかったですね。棟梁には、本当に甘えさせてもらいました。
「宮大工以外の職人からも、納得してもらえるような仕事を」
2001年、現社長である横川さんと会社をつくることを決めたとき、最初に意識したのは「若い職人たちとともに、どこまで未来を見据えて会社をつくっていけるか」ということと、「岡本棟梁の教えをどれだけ残していけるか」ということでした。
宮大工の世界へ恩返しがしたい、と言うと少し重苦しく聞こえるかもしれませんが、自分たちが理想とするよい建物をお客さんに提供し続けられるとともに、若い宮大工たちが学び、成長し続けられる会社にしたい、と思ったのです。
私が岡本棟梁と出会ってから、今年で18年になります。棟梁が引退するまで二人三脚で仕事をしてきましたが、棟梁に言われた言葉で特に印象に残っているのは、「宮大工以外の職人からも納得してもらえるような仕事をしろ」というもの。
ひとつの建物が完成するには、宮大工以外にも左官屋さんや瓦屋さんなど、たくさんの職人の力が不可欠です。施主様はもちろん、仕事で関わるすべての方々といい関係をつくるということをこれまで忘れずにいられたのは、ほかでもない岡本棟梁の教えがあったからだと思います。
「見えるところは当たり前。見えないところほど気配りをせなあかん」という棟梁の言葉はいまの匠弘堂の仕事にも脈々と受け継がれていますし、私は2代目の棟梁として、この言葉を自分の仕事を通し、次の世代に伝えていかなければと思っています。
初代棟梁・岡本弘の意志や仕事への想いは、コチラのページでも紹介しております。是非ご覧ください。